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岡山県 


おかやまじょう

  
外観復元天守

廊下門と天守

天守と堀として利用している旭川
岡山城 (岡山県岡山市北区)
天守:外観復元天守  日本100名城 
戦国期を中心とした主な歴史
南北朝時代 名和長年の一族である上神高直が石山台に城(石山城)を築いた
      のが始まりとされる。その後、室町時代後期までの城主はよく
      分かっていない。
大永年間(1521~1528) 金川城主・松田氏に仕えた金光氏が城主をつとめる。
1570年 石山城主・金光宗高、備前守護代浦上氏の一族・浦上宗景の
    被官・宇喜多直家に謀殺される。
1573年 直家、亀山城から石山城に居城を移し、城の改修と城下を整備をする。
1582年 直家死去。直家の子・秀家が家督を継ぐ。
1585年 秀家の石高が57万石(47万石とも)に確定する。
1590年 秀家、岡山に本丸を築き石山城を取り込んだ築城を開始する。
1597年 城の大改修が終わり、城下町も整備され岡山城の名称が定着する。
1600年 関ヶ原の戦い。秀家、西軍について改易される。
    秀家に代わり小早川秀秋が52万石で入城する。
1602年 秀秋死去。小早川家が断絶。
    池田輝政の次男・忠継が28万石で藩主となるが幼少であったため、
    兄・利隆(姫路藩2代藩主)が代わりに政務を行う。
1613年 忠継が入城する。
1615年 忠継死去。忠継の弟・忠雄が31万5千石で入城する。
1632年 忠雄死去。忠雄の子・光仲が家督を継ぐが因幡鳥取に転封。代わりに
    鳥取から池田光政(利隆長男)が31万石5千石で入城する。
    以後、光政系池田氏が代々城主をつとめ明治維新を迎える。

(メモ)

 天守は鉄筋コンクリート製の外観天守だが、月見櫓、西丸西手櫓は現存で国指定の重要文化財に指定されている。
 城に隣接して日本三大庭園のひとつ、岡山後楽園がある。造営したのは輝政の曾孫である綱政。
 岡山へ行ったなら地元グルメ、ドミカツ丼(ドミグラスソースカツ丼)を堪能すべし。
 月見櫓(重要文化財) 不明門(復元) 岡山後楽園



びっちゅうまつやまじょう 


城がある臥牛山(約480m) 

現存天守と櫓(復元)
 備中松山城 (岡山県高梁市内山下)
 天守:現存天守 日本100名城 日本三大山城 
戦国期を中心とした主な歴史
1240年 有漢郷の地頭・秋庭三郎重信が砦を築いたのが始まりとされる。
南北朝時代 足利尊氏に従った細川氏が備中国の守護となる。
室町時代後期 細川氏の勢力が衰え庄氏、三村氏ら国人たちの勢力が増す。
1561年 三村家親、毛利氏の後ろ盾を得て庄氏を破り備中松山城を居城とする。
1566年 家親、宇喜多直家に暗殺され、家親の子・元親が城主となる。
1574年 元親、毛利氏が宇喜多直家と結んだため織田信長に通じて争う(備中兵乱)
1575年 毛利氏により城が陥落。元親自刃。城は毛利氏の支配下に入る。
1600年 関ヶ原の戦い。毛利氏減封に伴い江戸幕府が城番として小堀正次を置く。
1604年 正次死去。正次の子・政一(小堀遠州)が引き続き城番をつとめる。
1617年 政一、近江国へ転封。池田長幸(輝政の甥)が6万3千石で備中松山藩を立藩。
1632年 長幸死去。長幸の子・長常が跡を継ぐ。
1641年 長常死去。池田氏無嗣断絶。
    以後、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏が藩主をつとめ明治維新を迎える。
(メモ)
 全国に12しかない江戸時代から残る現存天守の中で標高が一番高い所にある。
 岐阜の岩村城、奈良の高取城とともに日本三大山城のひとつに数えられている。
 自然の岩を取り込んだ石垣が特徴で、その造形美から2016年度の大河ドラマ「真田丸」のオープニングで使用された。ただし主人公である真田幸村とは縁もゆかりもない(と思う)。

現存天守(重要文化財) 大手門跡 石垣群
二重櫓(重要文化財) 巨岩を取り込んだ石垣 城下の町並み